トラウマとは心的外傷の事です

私は医師ではありませんから、専門的なことを書くのは控えます

ただ私個人としての意見を述べるという面では制限はないので言わせて頂こうと思ってます

そもそも、トラウマというのは心の傷であって「記憶のダメージ」であります。記憶は脳が司ってる訳であり、もし自称トラウマという方が記憶喪失になったら、その時点でその人にはトラウマが無くなった事になります。こういう屁理屈が通じてしまいます

ポイントは、所詮は記憶に支配されてるという事です。記憶を無くすなんて曲芸は普通の人間には不可能でしょう。でも、記憶を受け止め、処理し、コントロールすることは可能だと思います

それこそ正に心の自己鍛錬となります

「トラウマのない人間に私の気持ちなど解るものか!」と言う方が居ますが、ではもし仮に同等のトラウマがある人がそれを克服してしまったら、その人にはそんな事を言えないという事でしょうか?それともたまたま、その人は精神的に強い人間で、たまたまトラウマを克服できたのでしょうか?

私が言いたいのは

「トラウマなんてものは、卑屈の精神が更にその記憶を極端に歪曲し悪循環にさせる」程度のものであって、逆を言えば、卑屈じゃない前向きな精神であれば、その記憶を極端に修繕修復し、好循環させられるという事なのです

所詮は「トラウマ」です。でも医師の立場にある人が

「所詮はトラウマですよ」とか「鬱病って思うから鬱病になるんですよ」なんて言えませんね。本音で思っていても言えません。私が思うに、だからどんどん悪化すると思ってます。心的外傷による鬱病患者などには話しを聞くだけで良いとか、反論してはいけないとか、頑張れと言ってはいけないとか、取ってつけたような事を言う医者などが居ますが、それは「医学の世界のお話し」であって「人間学」のお話しではないのです

そのトラウマある方も、鬱病患者も、まずは一人の人間です。私と同じ人間です。違いなどないのです。でも、何故か、何かの原因で、病気になってしまった。いや、何でも精神的な苦脳を病気と断定する風習にも私は違和感を覚えますが、病気であろうともなかろうとも、それを治そうとする概念が私は間違ってる思ってます

治すというのは、正常じゃない状況にあるという事です。では正常とは何でしょうか?

鬱病と診断されてなくても、私から見れば普遍的な人間的幸福論や善悪観が欠落した悪党のような人は世間に溢れかえってます。この人達のほうがよっぽど「病気」です。正常じゃないからです。

私は悪党も善人も、そして鬱病と言われる人も、または幼い頃に虐待など受けて自称「トラウマ持ち」と言われる方も、その姿をもって一人の個人、人間であると判断すべきと思ってます。そこに病気などという都合良いレッテルを貼ると、それが返ってその人の改善を妨げます

もちろん、明らかな病気は病気と判断するべきでしょう。日常生活ができないくらいに衰弱したり、喚き叫んだり、犯罪を犯しそうになったり、それこそ精神病です。病院に隔離する必要があるでしょう。でもちょっとでも内気な人や、緊張する人、またはやる気がでない人、あるいは過去のトラウマでその状況になると過呼吸になって何もできなくなるなど、この程度であれば病気などというレッテル貼らずに周りの協力や自己で改善できる領域です

いいえ、改善して貰わないと困ります。そうでないと、この先の未来はほとんどの人が「鬱病」になってしまいます。私が子供の頃の環境の方こそよっぽど「鬱病」になりたい世界でした。自分の意見なんて大人は聞いてくれません。物もなく、家も汚く、貧乏で、差別や虐めだって頻繁にありました。悪い事をすれば近所のオジサンに血が出るまで殴られたり、父親が食事に箸をつけるまではご飯も食べられません。もちろん正座で食事です。

父親は絶対でした。今の若者だったら昔の家庭は耐えられないでしょう。まるで牢獄のような規則正しい生活で、父親が牢獄の親分みたいな権力ある時代です。それでも昔は鬱病なんて言葉は聞きませんでした。

大きな声では言えませんが、近親相姦などは昔の方が日常茶飯事です。秩序なんてある訳がありません。そして現代においては、警察が発表する数字では若者の犯罪も減ってます。毎年減ってます。でもマスコミなどが嘘を吐いて数字を表現せずに犯罪の残虐性だけをクローズアップして今の時代の方が病んでるように見せてるだけで、実際は昔の方が犯罪は多く、もっと残虐でした。

現代人は自由過ぎて、物も豊かで、そして情報も氾濫してますから、昔の人よりも何も知らないのです。知ってるようで、実際は本質を何も知りません。「物の有難味」も知りませんし「生きてる事の有難味」も知りません。

だから簡単にトラウマとか鬱病などという言葉を乱用したがるのです。でも、ここでの話しは精神論ですから、精神が鍛えられてない人に対して「根性がない!」と説教しても無駄です。それで改善されるなら医者も患者さんに説教してる事でしょう

私は医者じゃありませんが、トラウマある人でも鬱病患者でも、一人の人間としてしか見ません。私はその方の病気を直接的に治すことを試みる医者ではなくて、その病気がどういった原因から発生してるのか?という人間として修正すべき点から入ります

医者とは施術の観点が全く違うのです。医者は治せなくても、私は「改善させます」

私は最初から治すという概念でその人間には接しません。何故なら、治す必要がないからです。治そうとするかヘンになるのです。そうではなくて、その人そのもの良い面や悪い面が誰にでもあります。伸ばす面は伸ばし、制限する面は制限し、そしてコントロールすべき面はコントロールする方法を教えます。

何かを治すという考えを捨てないと、相手も言い訳を作り出します

「私は病気だから」と。病気だからと思ってる人はずっと病気です。だから何年も鬱病を患ってますという発言をする人が後を絶たないのです。これは生活習慣病と同じで、生活の中、人生そのものに巣食うものですから、日々の生活が重要になるのです。

日々の生活とは、その人間の生き方が関係してきます。その生き方は華々しくある必要も輝かしい功績が必要でもありません。庶民で良いのです。一般的で良いです。普通の中にこそ最高の幸せがあります。それが人生です。その普通を継続することがどれだけ困難な事か知らない人があまりに多過ぎるのです

「無理しなくていいんだよ」とか「頑張らなくていいんだよ」などという言葉は誰でも形式的には言えるのです。そして言われる側だって、それが形式的に言われてる事くらいは解ってます。そのような作られたコミュニケーションを重ねて人間が変わるなら苦労などしません。医者も完璧じゃないのです。医学部で勉強したというだけで、ほとんどは「未完成の人間の一人」に過ぎません。だから医師に何でも求めるのは間違ってます

人は魂で本当的に物事を察知します。本能的に条件反射する魂に投げかける人間同士のぶつかり合いがなければ人の心など動かせません。動かない心は、医者が言うように「病気が治らない人生」なのです

私は真剣です。相手が死ぬか生きるかを言うなら、私も死ぬか生きるかの気持ちで相手に接します。それが魂と魂のぶつかり合いだと思ってます。必死になります。

人生とはまさしく必死そのものなんですから。どう生きたかであるんです。死ぬか生きるかです。

泣いて笑って悩んで迷って、傷付いて、それが人生です

それぞれの感情や出来事を他の人達と天秤にかけて優劣をつける事自体も愚か

「あの人の方が私よりも泣いてる回数が少ない」とか「私の方が悩んだ回数が多い」などなど

こんな事をして他と比較し、自分の方が劣り不幸であるという事に人間はもの凄い労力をかけて疎外感を感じ悩みます。まさに時間の無駄です

あなたはあなたで、相手は相手です。

お分かりですか?

敵?

それは全部、あなたの心です

味方?

それも全部、あなたの心です